理事長挨拶

SN3O0008

理事長 藤田佳伸

東北福祉大学社会福祉学部産業福祉学科食品衛生コース卒業
オハヨー乳業株式会社 製造部市乳工場授乳場勤務
元社会福祉法人 弘徳学園ひまわり組主任代理
現在 就労継続支援アンジョリロゼール管理者

所属団体

西大寺ライオンズクラブ
日本酪農科学会

略歴

兵庫県神戸市出身
神戸市立垂水中学校(水泳部に所属)
京都市にある、真言宗洛南学園、私立洛南高校に入学(水泳部に所属)
東北福祉大学に入学
高校時に病気をしたことから、福祉や心理学に興味を持ち仙台まで行きました。2年のときに食品衛生学研究室に所属し一生の恩師と出会いました。食品衛生研究室では、食品中の化学分析、微生物培養などを中心に学びました。この時東北大学名誉教授で東北福祉大学教授をしていた中西武雄先生の薫陶を受け将来は、乳業メーカーに勤めようと思いました。食品衛生学実習で直接実験等で教えていただいたのが、現東北大学大学院教授斉藤忠夫先生そして、東北福祉大学教授で宮城県公安委員長をしている畠山英子先生でした。斉藤教授は現在、アジア乳酸菌連合学会会長。日本酪農科学会の会長をしておられます。
卒業論文は非熟成チーズの製造と一般成分の分析という内容でした。大学卒業後は、中西武雄先生の猛烈な推薦をいただき、オハヨー乳業に行きました。仙台へは、斎藤先生、畠山先生にお会いするためよく行きます。
オハヨー乳業入社
市乳工場、受乳場勤務を長くしました。牛乳処理係で牛乳の殺菌処理やコーヒー、乳酸菌飲料、プレーンヨーグルト、低温殺菌牛乳等も作ったことがあります。プレーンヨーグルト製造では100時間/月を超える残業の毎日でした。10年間勤めたあと福祉施設に転職しました。
岡山市内の知的障害児の方たちの入所施設「弘徳学園」に就職
4歳のお子さんから上は20歳をこえた方たちと寝食を共にする生活が始まりました。
4年、児童施設にいてその後、当時は更正施設と呼ばれた大人の障害者が住んで生活している同じ法人内の施設に移り、10年ほど勤めていました。
ここで、同じ理事をしている森岡さんと出会い、一緒に仕事をしていました。作業の毎日でしたが、ここでほうずきの作り方を覚え、ほうずきを作り続けていました。13年ほど前まで、市内の某デパートの前でほうずき市がありましたがそれを担当していたのが私です。
オハヨー乳業の会社経験など得がたい経験をつんで、土田の里で頑張っています。過去に岡山バラ会に所属していて毎年春と秋に行われるバラ展に出品し、山陽新聞社賞を多く頂きました。岡山市長賞、岡山バラ会長賞もいただいたことがあります。
西大寺ライオンズクラブの会員としても活動しています。日本酪農科学会は昭和56年に入会、一時退会していましたが復帰しました。


 

略歴にも書きましたが、私は高校1年の夏大病を患いました。それまでは小学校から水泳しか能がなく真っ黒になって泳いでいました。小学校4年からスイミングスクールに通い中学校になってからは全国レベルの先輩たちにもまれてたくさんの大会に優勝したり、入賞したりしていました。しかし力的にはちょっと足りず、地方レベルの選手でした。それでもオリンピック選手や候補選手とともに同じ大会にはよく出させていただいていました。先生は、元オリンピック代表選手の平泳ぎの選手でした。高校は、同期の友人で800mリレーや400mメドレーリレーを泳いだ私を除いた3人は当時全国大会で優勝の常連校だった尾道高校へ進学。私藤田は京都の洛南高校へ進学しました。何故私だけが洛南高校かというと、私だけが全国レベルではなかったということです。洛南を選んだのは、昭和45年、日米対抗水泳大会が大阪の長居プールで行われ、そこに個人メドレーで洛南の選手を見つけたからでした。Nさんという方でしたがテレビで見た印象が強く、ここだと思い洛南を選びました。そして翌年入学、水泳部に入りました。ところが行ってびっくり、フリーの選手で全国クラスの選手が何人もいることを知りました。バタフライ、背泳ぎの選手も強かったです。中学校では京都の選手とも戦ったこともあり、同じ試合に出た選手が何人かいましたが、彼らにはもうすでに勝てませんでした。中学校の時から洛南高校へという道が決まっていたのだと思います。そこに体調不良が始まりました。小学校の一時期同じ病気を経験しましたが今度は絶対安静を言い渡されました。高校1年の10月には療養に入りすぐさま休学扱いとなってしました。病気自身は翌年には快方に向かい復学をしてもよい状態となって、もう一度やり直しの1年生になりました。水泳部から戻ったらという誘いもありましたがさすがにその勇気はありませんでした。しかし、ここからが地獄の毎日です。突然学校へ行けなくなりましたそして、不登校になりました。過剰な反応ではという人もいるかもしれませんが、これは経験してみた人でないとわかりません。、この世から去りたい。誰も知らない世界に行きたい。こういう気分でした。恥ずかしい、なさけない。穴があったら入りたい。誰にも見られたくない。こういう心境でした。家に引きこもりました。人の目が気になって出れないのです。昨年までのはつらつとしたものはもうありません。両親は何が起きたかわかりません。引きこもりの生活は怠惰なものでした。これは覚えています、しかしこれしかないのです。とにかく私の場合人の目が気になって仕方がない、悪口を言っているのじゃないかとか、様々なことが頭によぎります。とにかく誰にも会いたくない、外にも出たくない。出れない状態が2年続きました。その間、私はともかく、両親兄弟はどういう日々を私と過ごしていたのでしょうか。しかし両親は何もいう事なくこの状態を受け入れてくれました。洛南高校のほうでも、休学扱いということを許してくれていました。今を思えば本当にありがたいことです。昭和46年から昭和49年にかけてのことでした。病気の期間もいれれば引きこもっていたのは、2年以上でした。病気は既に完治して18歳になってなんとなくですが、このままでいいのかという気持ちが出てきました。父親は外国航路の客船のパーサーで日本にいることが少なかったのですが、私のことはすごく心配してくれていました。体調が悪そうだとそれは心配してくれました。母親も同じでした。よき理解者でした。しかし父はあるとき言いました。病気も治り、18歳すぎたら一人で生きて行ってもおかしくない。これだけでしたが私の心の中にもこのような状態から脱したいという気持ちが少しずつわいてきていました。働くという意識はあまりありませんでした、しかし何かやりたいとう気持ちに変わりはありませんでした。しかし外に出る勇気はまだありません。そのころ祖父、祖母のところに行く機会がありました。今の土田の里がある建物がそうです。その時、父親と同じようなことを言われました。働けとは言いませんでしたが、昔のことですからはっきりとは覚えていません。外にはまだ出る勇気はありませんでしたが何かやりたいという気持ちは出てきました。私は、元気なころ実は、水泳のほかにゴルフを父や兄としていました。初ラウンドは小学校4年でした。水泳ばかりでしたのでゴルフは遊び、父や兄の相手にさせられただけでしたがそれでも、中学校時代は神戸の舞子にあるゴルフ場で、80台で回るときもありました。全日本ジュニア選手権にも出たことがあります。倉本プロや藤木プロがでていました。私は思いました、笑わないでくださいプロゴルファーになりたいという夢を持ってしまいました。そのころジャンボ尾崎選手が華々しく登場した時代と重なります。そして見つけました、アシスタントを募集しているゴルフ場を。研修生のことです。すぐではありませんが、応募しました。場所は大阪府の一番北のはずれです。山の向うは丹波というところでした。張り切っていきました、急展開今度は山の中に引きこもったとも言えますが、ゴルフが外に私を連れ出してくれたのです。しかし夢は簡単に破れます。ゴルフなんてできません、同じ研修生が数人いました。ジュニア選手権に出た人もいました。来る日も来る日もゴルフ場の整備です。クラブを振るのは夜や朝だけ。私は根を上げました。昔の元気なころなら平気だったかもしれませんしかしこの時は違いました。2年以上引きこもっていたのですから。ある時、大阪に買い物に行くといって山をおりて、阪急電車池田駅までバスに揺られ行きました。そして、神戸の家に帰りました。逃げ帰ったのです。母親は何も言いませんでした。本当に優しい母でした。そしてまた引きこもりの始まりです。しかし前とは違っていました。世間というものを垣間見たという経験がこのままではという気持ちが、はっきりと起きてきたのを覚えています。そして、もう一度学校をやり直そうという気持ちになったのです。つまり復学です、2度目の復学です。兄が学校と交渉してくれました。しかし当時の校長はなかなかOKしてくれませんでした。前例がないということです。それから私の姿が若者らしくないというのです。髪は長い、服装はだらしないというのです。しかし、何度かお願いに上がるなかで、一人で来なさい、君ひとりで来なさいといわれだしたのです。そして一人で学校にお願いに行きました、引きこもりの人間が一人でなぜか校長に会いに行く今を思えば不思議です。しかし社会の大変さを少し見てしまった私にとってこの次に生きていくのはここしかないと思ったのも事実です。そして、だんだんと身なりはきちんとなっていき、髪も短くなっていました。校長、生活指導の先生と話すうちに洛南の生徒に戻っていったのだと思います。復学してよいと許可をもらったのは4月になってからでした。最初の同級生は3月に卒業しています。つまり私は、18歳半ばで高校1年生になったのです。これは昭和49年4月の話です。入学式は出なくていいから始業式から来なさいと生活指導の先生から言われました。さあ大変です、学生服のズボンが入りません。上履きがありません。急遽注文しましたが始業式には間に合いませんでした。ありあわせの色の同じものを買い求め始業式に出ました。今思えば滑稽なことですが、私にすれば必死です。しかしこの一連のやり取りで、一人で本当に外に出れたのは事実です。何回も学校に行きました、呼ばれました。話だけで終わった時もあり何しに行ったのかわからない時もありました。しかしだんだんと本気になっていきました。先生たちは、この本気を待っていたのでしょうかそれはわかりません。しかし復学はできました。以前とは気持ちが違いました。恥ずかしい、人の目が気になるというのは残っていましたが前とは違っていました。2度目の高校1年生、いや正確に言うと3度目の1年生です。ちょっと年のいったオジサン顔の高校生でした。同級生は15歳です。みんな私のことをどう見たのかそれはわかりませんでした、余り他人のことには興味のないという感じの同級生が多かったのです。洛南高校は今は日本でも有数の進学校で超難関校です。そしてあの当時すでに進学校として名乗りを上げていました。気が付いてみれば部活も活発、進学もすごいという文武両道の学校だったのです。今も強いですが、バスケット、体操部、吹奏楽部など全国レベルでした。水泳部も全国ランキング1位2位と独占する選手がいました。つまり、みんな大きな目標を持った人たちが多くいたのだと思います。よく言えば競争し張り合い頑張っている。悪く言えばほかの人のことは余り構わないということでしょうか。この環境が私には幸いしました。みんな目標をはっきり持っていました。ある意味競争社会です。私は病気がきっかけで今でいう負け組になりました。しかし働くことがどれだけ大変か、社会の現実がどれだけ厳しいかを少しだけ知りました。とにかく学校に行こうと思いました。復学してからはさすがに学校と家との往復です。神戸から京都までの電車通学の始まりです、そしてここで気が付いたことがありました。同じ高校生が学校は違いますが多く乗っています。知りました、あの有名なN高校、K高校等の生徒がおなじ電車に乗っていました。彼らは、ホームで待っている時から勉強していました。電車に乗ってからも同じです。そして決して座らない、席が空いていても座らない高校の生徒さんも乗っていました。水泳しかしなかった私にとってはショックでした。電車に友達と乗れば話しかしない身にとってすればこれは異文化に触れたといっても同じです。私もぼーっとするわけにはいきません。さっそく真似をしました。そのころ知りましたが、神戸の山の名前を冠する高校は、トイレ掃除を裸足で素手ですることを知りました。この学校の生徒はどんなに電車の席が空いていても座りませんでした。偉いと思います。今も同じだそうです。私の場合はしかし途中席が空けば座りましたが、神戸から京都までは立つのはちょっと無理です。参考書や教科書を読みました。こうして以前とは違った学生時代が始まりました。今思えばこれがよかったのだと思います。
環境に恵まれました、同級生は目標がありました。進学に部活に。先生も熱心でした。私にクラスの委員長やいろんな役割を課してくれました。年長だからということでさせたということもあるかもしれませんが、もっと違う意味での激励だったと思います。3度目の1年生はとにかく夏休みまで学校に通うことを目標にしました。なぜかというと、最初の1年生の夏に病気になったからです。秋以降は行っていませんでした。それが終わると次は冬休みまで頑張ろうと目標を建てました。それも達成されるとあとはもう楽でした。成績はさっぱりでしたがとにかくついていこうと勉強しました。基礎が崩れていたのでゼロからの出発でした。社会系や国語、理科系はわかりましたが数学、英語は全くできませんでした。そこで得意科目を徹底的にしました。全国模試の学研模試や旺文社模試で日本史、世界史でランキング入りしたこともありました。しかし英語、数学はまぐれあたりの点数で話になりませんでしたがそれでも負けじと勉強しました。復学を果たし、学校には行けるようになりました。ちょっと復学の動機は不純かもしれませんが人間とはこういうものかもしれません。はっきり言って働くことの大変さを知って復学の道を選んだという面もあります。こうやって私は高校生活を遅ればせながら頑張っていきました。高校3年生の夏は21歳になっていました。元の同級生は大学3年生になっているのです。そのころはもう大学に行くことしか頭に在りません。引きこもっていた時とは大違いです。洛南高校には本当に感謝です。そのころ同級生といっても年下の同級生でしたが体の不自由な人がいました。電車に乗って来るので毎日通学を共にしていました。彼は懸命に歩いていました、しかしそんなことはおくびにも出しません。運動会だって走っていました。彼の足は一方が片方の半分の細さでしかありません。病名は知りません、誰も聞きません。先生も教えてくれません。本人も話しません。しかし同級生として普通にやっているのです。彼にも勇気をもらいました。障害を持っているのに普通にしているのです。仲良くなりました、いろんな話をしましたが体のことは話したことはありませんでした。私も自分がこうやって今まで来た等とは言いません。みな普通なのです。高校生です。洛南高校はすごいと思います。ノーマライゼーションの世界を40年前にもう実現していたのです。私のような高校1年を3度目などという生徒を受け入れてくれた。素晴らしいとしか言いようがありません。ものすごく長い自分史となりましたが、これが私の福祉の原点なのです。この後私は、東北福祉大学に進学しました。同級生の中にはいぶかしがる人たちもいましたが、先生たち、とりわけ生活指導の先生は大変喜んでくれました。この先生は生徒から鬼のHと呼ばれていた柔道8段の先生でした。東北福祉大学では、社会福祉と共に産業福祉についても学ぶコースに属し、その中でも食品衛生にかかわるコースを選びました。そして3年間を食品衛生コースに学び、そこで中西武雄先生という畜産物利用学の権威である先生に学ぶ機会を得、卒業研究にナチュラルチーズ(クリームチーズ)の製造と一般成分の分析という内容を選びました。これが今の土田の里の就労継続支援A型事業所アンジョリロゼールに結びついています。私の福祉の仕事の出発は児童福祉からです。障害児の入所施設から始まりました。今は独立して事業を行っていますが、自身が不登校の経験者でもあり、病気休学の経験もして周囲とりわけ両親には心配のかけ通しでした。高校時代いい友達に恵まれました。この時選んだ福祉大学が私の始まりです。十代の半ばから後半は挫折と失望の毎日でした。しかし多くの人たちのおかげで立ち直り今に至っています。今土田の里で行っている事業はこの時が基礎となっています。あの時今のようなサービスがもしあればもっと違った形で今の私があるように思います。今日も、心の病に苦しむ人がいます。悩む人がいます。体の病に苦しむ人もいます。自分ではどうしようもない環境におかれた人もいます。私は、この全部を経験しました。しかし生きています。復学後の高校時代がすべてのような気がします。土田の里はいろいろな人が利用できる事業所となっています。あとどれだけ頑張れるかわかりませんが私は高校時代の経験を忘れないようにして土田の里をより素晴らしい事業所にしていこうと考えています。